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プライバシーとしての「忘れられる権利」とオンライン表現:欧州と各国の動向

Tags: 忘れられる権利, プライバシー, 表現の自由, オンライン規制, GDPR

オンライン空間における「忘れられる権利」とは

デジタル技術の発展により、個人の情報はかつてない規模で生成され、インターネット上に蓄積されています。このような状況の中で、自身の過去に関する情報の取り扱いや、インターネット上での拡散をコントロールしたいという要求が高まってきました。これが「忘れられる権利」と呼ばれる概念です。

「忘れられる権利」は、個人が自分に関する特定の情報がインターネット上で公開され続けたり、検索エンジンの検索結果に表示されたりすることを止めたいと求める権利として議論されています。これは主に、時間の経過とともに不正確になった情報や、もはや関連性がなくなった情報、あるいは公開され続けることで個人のプライバシーを不当に侵害する情報などを対象とすることが多いです。

しかし、この権利の行使は、情報の自由な流通や表現の自由といった原則と衝突する可能性があります。特に、報道や学術研究に関連する情報、あるいは公益性の高い情報の場合、その削除や検索結果からの除外が議論を呼びます。本稿では、「忘れられる権利」の概念、その導入の経緯、そしてオンライン表現との間で生じる主要な課題について報告します。

「忘れられる権利」の導入経緯と欧州の動向

「忘れられる権利」という言葉は、法的な権利として明確に確立される以前から議論されていましたが、特にその概念が広く知られるようになったのは、2014年の欧州司法裁判所によるGoogle Spain事件の判決が契機です。

この裁判では、あるスペイン人男性が、過去の借金に関する競売公告が掲載された新聞記事がGoogleの検索結果に表示されることの削除を求めました。欧州司法裁判所は、検索エンジン事業者は個人データを処理する者にあたり、特定の条件下では、個人は自分に関する情報を含むウェブページへのリンクが検索結果に表示されないように求める権利を持つとの判断を示しました。これは、情報の公開元から情報を削除する権利(消去権)とは異なり、主に検索エンジンという情報へのアクセス手段に対する権利として認められた点が特徴です。

この判決を受けて、欧州連合(EU)では、2018年に施行された一般データ保護規則(GDPR)において、個人の「消去権」(Right to Erasure、しばしば「忘れられる権利」とも呼ばれます)が明確に規定されました。GDPRの第17条は、個人データが処理目的との関連で不要になった場合や、本人が同意を撤回した場合など、特定の条件下で個人データの消去を求める権利を定めています。

欧州のこうした動きは、世界の他の地域にも影響を与え、類似の権利や概念が議論されるきっかけとなりました。

オンライン表現との衝突と課題

「忘れられる権利」の行使は、しばしば表現の自由、報道の自由、あるいは情報へのアクセス権といった他の重要な権利や原則と衝突します。

主な衝突点としては、以下のような点が挙げられます。

  1. 公益性とのバランス: 削除要求された情報が、犯罪行為、公職にある人物の行動、社会的に重要な出来事など、公共の利益に関わる情報である場合、その情報を公開し続けることの正当性が主張されます。個人のプライバシー保護の要請と、市民が情報にアクセスする権利、ジャーナリズムの役割との間で、どのようにバランスを取るかが大きな課題となります。
  2. 削除判断の主体: 検索エンジン事業者やオンラインプラットフォームが、削除要求の妥当性を判断する最初の主体となる場合が多いです。しかし、彼らが個人の権利や公益性、表現の自由といった複雑な要素を適切に評価できるのか、その判断基準の透明性は確保されているのかといった点が問題視されています。
  3. 国境を越える情報の問題: インターネット上の情報は国境を容易に越えます。「忘れられる権利」を行使してある国の検索結果から情報が削除されても、他の国の検索エンジンやウェブサイトでは引き続きアクセス可能な場合があります。削除の範囲を地理的に限定するか、全世界に及ぼすかといった点も、国際的な議論の対象となっています。
  4. アーカイブの価値: 過去のウェブページやデジタルコンテンツは、歴史的記録や文化的なアーカイブとしての価値を持つことがあります。安易な削除が、こうしたデジタルアーカイブの劣化につながる懸念も存在します。

これらの課題に対し、各国の裁判所は個別の事案ごとに慎重な判断を下しており、また法律やガイドラインの整備も進められています。しかし、デジタル空間における情報の性質上、統一的な解決策を見出すことは容易ではありません。

各国の対応と今後の展望

欧州以外の国々でも、「忘れられる権利」に関する議論は活発化しています。例えば日本では、検索結果からの削除に関する裁判例が蓄積されており、特定の条件下で削除を認める判断が示されています。ただし、これは「忘れられる権利」という包括的な権利としてではなく、プライバシー権や名誉権といった既存の権利の枠組みの中で判断されることが多い傾向にあります。米国では、憲法修正第1条による表現の自由が強く保護されている文化的背景もあり、欧州のような形での「忘れられる権利」の導入には慎重な意見が多い状況です。

オンライン空間における「忘れられる権利」は、個人の尊厳とプライバシーを保護しようとする動きと、情報への自由なアクセスや表現の自由を確保しようとする動きとの間で生じる緊張関係を示しています。技術がさらに進化し、情報流通の形態が変化する中で、この問題に関する国際的な議論や各国の法整備は今後も続いていくと考えられます。情報を受け取る側、発信する側、そしてプラットフォーム事業者のいずれにとっても、この権利がもたらす影響と課題について理解を深めることが重要です。